桐生市新里町は赤城山のふもと東南に位置し、東西4.5km、 南北に15km、 面積35.56k㎡、最北端の標高は1446m、 最南端は135mである。 本学区は、北小学校地区・中央小学校地区・東小学校地区の 3地区 からなっている。 北小学校地区は、一年を通じて住民の移動は少ない。 大字赤城山は、 本町の最北端に位置し、第二次大戦後 開拓されたところである。 中央小学校地区は、町の南西部に位置し、公共的施設が 集まり、恵まれた環境であるが、人口は横ばい状態を 示している。 東小学校地区は、東側が大間々扇状地として平坦な地形を しており、かつては純農村であったが、農業が減少し、 保護者の職業は、会社員・公務員等のサラリーマンや 自営業が多くなってきている。 |
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新里の史跡 | ||
① サクラソウ ② 関の磨崖仏 ③ 山上の多重塔 ④ 武井廃寺塔跡 ⑤ 野の大クスノキ ⑥ 藤生沢のお角サクラ ⑦ 中塚古墳 ⑧ 善昌寺の五輪塔群 ⑨ 土橋のおかめサクラ ⑩ 奥沢の裸大日 ⑪ 瀧興寺の虚空蔵菩薩&宝篋印塔 ⑫ 赤城の百足鳥居 ⑬ 龍真寺の鶏亀地蔵 ⑭ 鏑木の大日如来 ⑮ 野の六地蔵幢 |
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-サクラソウ- 清楚で可憐なサクラソウは、木漏れ日の当たる河原の湿地をこのみ咲きほころびます。新里では、 標高500m付近の鏑木川の上流やその支流に自生し、毎年4月下旬頃から咲き始めます。以前は、 標高300mの下流域でも見られましたが、環境の変化により今では影を潜め、この付近では見られ なくなりました。 サクラソウは、サクラソウ科の多年草です。葉は淡緑色で楕円形をしており、緑にチリメン状の縮 みがあります。さらに少し切り込みが入り、軟毛が生えています。花茎は、15cmから30cmになり、 花弁は紅紫色で5つに避け、さらにその一つの花弁の中央に浅い切り込みが入っています。雄しべは 5個で、雌しべは1個あり、株によって長いものと短いものがあります。 |
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-関の磨崖仏- 大字関の鏑木川のかかる不動橋のたもとに,赤城山の泥流によって運ばれた凝灰質の集塊岩があ ります。 この大きな岩は、高さ128cm、幅80cm、奥行き80cmの規模で船型に彫り込まれてい ます。そして、その中は三尊像が刻まれています。三尊像は阿弥陀如来を中心に脇侍として右に 観音菩薩,左に勢至菩薩が半肉彫りされています。なお,三尊像は朱塗りの跡が見られます。この 磨崖仏は鎌倉時代頃のものと推定されています。 阿弥陀如来は、無限の寿命と何物にもさえぎられることのない光明を持つ、西方極楽浄土の中心 的な仏です。 観音菩薩は、正しくは観世音菩薩といって、人々を思いのままに救うことができる仏 です。また、勢至菩薩は、智恵第一の菩薩で人々に菩提心を起こさせることができる仏なのです。 |
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-山上の多重塔- 通称,山上の多重塔は,形式上では塔婆・石造三層塔といわれます。塔身の三層の 部分は一石で造り出されています。高さは1.85m,下層は48cmで垂直に立ち上がり, 中層と上層は「ハ」の字状に造られています。それぞれの塔身の四面は朱が塗られ, 45の文字が刻まれています。読み方は、上層から右回りに中層・下層と読みます。 そして、基壇と基礎ならびに笠石は塔身の朱を強調するように墨が塗られているのが わかります。 |
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-武井廃寺塔跡- 円錐状の加工石は塔の心礎である,という見解から,ここは |
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-野の大クスノキ- 県内でも最大級の巨木で、目通り6.9m,根廻り8.7m,樹高は20mにもおよびます。枝張りは東西で約25m,南北では約30mもあり,幹は地上から約5m付近から4つの支幹に分かれます。 樹齢はおよそ600年を越えると推定されています。 現在も樹勢は旺盛で春の新緑が萌える頃から,深緑に移り変わる様子は見事な景観になります。 |
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-藤生沢のお角サクラ- 新井家の庭先にあるこのシダレザクラは,当主の角之丞が1196年に天満宮を祀り, その記念に植えたものだと伝えられている。そして、その娘「お角」にちなんで 「お角サクラ」というようになったといいます。また、万延元年(1860)に、桐生の 半渓という文人が、絵巻物に「新里の境、於角桜と唱える樹、新井定右衛門庭先 前在之也」と書き記しています。 |
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-中塚古墳- 標高200mの丘陵性台地斜面に造られた,直径38mで周堀をめぐらす円墳です。墳丘は約5mで前庭部は一部削られています。石室の開口部は南側にあり,かなり以前に開けられたようです。 そのため,副葬されていた遺物は一切分かりません。 石室は、安山岩の精巧な截石切組積による、横穴式の両袖型石室で羨門と玄門を備えています。 羨道は、長さ3.1m(左)、3.14m(右)、幅は1.31mです。玄室の長さは、4.16m(左)、4.28m(右) 幅は1.76m(中央部)で、石室の全体は7.67mあります。 上野三碑の一つ「山上碑」(高崎市山名町)の碑文には、新川臣と大児臣の婚姻関係や系譜が記さ れています。山上碑は、辛巳歳に建てられており、辛巳歳は681年に考えられていることから、 中塚古墳は新川臣の墳墓と推定されています。 |
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-善昌寺の五輪塔群- 新光太平山妙珠院善昌寺の本堂裏に,新田義貞の首塚といわれる五輪塔があります。 越前藤島の合戦で無線の最期を遂げた義貞の首級を桃井次郎が密かに持ち帰り、重臣の 船田長門守善昌に預けました。善昌は、主君の首級を手厚く葬り,供養のためこの寺で 生涯を終えたといわれます。大同寺は それ以降,善昌にちなみ善昌寺と称されるように なりました。 |
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-土橋のおかめサクラ ここのシダレザクラは,二つの名前を持っています。 古くは山上城にゆかりのある ”お藤”という人がここで花見の宴を 催し,あまりの美しさに心酔し,自ら「お藤桜」 と名付けたといわれます。また、その後、”おかめ”という美しい人にちなんで、 「おかめ桜」と呼ばれるようになったそうです。おかめ桜はこの地の旧家である瀬谷家 地内の道路の端にあります。 4月の上旬頃には、絢爛たる見事な花が咲きます。目通りは3.9m、根廻り4.4m、樹高 さは約10mあります。幹は地上から 約3mのところから枝分かれしていますが、一方の 支幹は枯れてしまいやや勢いを失っています。樹齢はおよそ400年と推定されています。 また、別名イトダクラとも呼ばれています。 |
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-奥沢の裸大日- 奥沢の標高398.5mの大日山の山頂、ここに大日信仰の跡が見られます。元和7年(1621)に堂宇(堂の建物)が建てられたが,火災によって焼けてしまいました。その後、安政6年(1859)に再建されましたが、またも火災によって焼けてしまいました。それ以来,堂宇は建てられることなく現在にいたります。そのため,むき出しになったままの石像は,「裸大日」 と呼ばれるようになったのです。 二体の石像はともに坐像で、左側のものは度重なる火災のためか、面相は全くわからないほどのいたみがみられます。右側の像は、どっしりとした堂々たる体躯で,高さは,1.49mあります。印相は智徳を施す智拳印をむすんでいます。大日如来は、金剛界では右手は仏、左手は大衆を表します。 |
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-瀧興寺の虚空蔵菩薩&宝篋印塔- 【虚空像菩薩】 関へ入って間もなく、県道梨木・香林線から右にはいると、真言宗三谷山不動院瀧興寺 があります。元和3年(1617)に尊光が開山したといわれています。参道の左手に基壇と基礎 の上に安置された虚空蔵菩薩の坐像があります。像の高さは90cmで,基壇と基礎を合 わせると2.7mもあります。虚空像菩薩は安山岩製の坐像で、左手は”衆生の願望するもの を与える”という与願印を表しています。安永5年(1776)の第12代尊盛和尚の時に建 てられました。 赤城山の小沼からの流れは粕川となって南面の水田を潤して います。その大滝のふもとの 堂宇は、天命2年(1782)の火災に よって焼けてしまいました。 尊盛和尚はその再建に努力し、 記念として不動尊から瀧興寺までの道程に丁杭(1丁は約109m)を設置しました。寺院の 入り口に終点を示す76丁杭があります。 【宝篋印塔】 安山岩製のこの塔は高さ3.65mで、寺の参道を入って間もなく左側に安置されています。 宝篋印塔は、過去・現在・未来にわたる諸仏の舎利(聖者の遺骨)を奉蔵するために「宝篋印 陀羅尼経」を納めた供養塔のことです。 願主は、北爪藤七で祖先の供養と、家運の繁栄ならびに生きとし生けるものの幸せと、死せる 諸々の成仏を願ったもので 寛政8年(1796)の第13代尊英和尚の時に建てられました 先代の第12世尊盛和尚は、粕川の大滝のふもと不動尊の堂宇焼失をなげき、一身をなげうち その再建のために捧げたのです。 やがて、瀧興寺は第13代の尊英に譲り、自らは不動尊の別当(お守りする)になったと伝えられています。 |
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-赤城の百足鳥居- 赤城山は、遠い昔より山麓周辺の人々に厚い信仰を受けてきました。それは神の住む山として、 人々の心や生活の中心に赤城山があったからなのです。そして、春になると人々は稲の豊作を願い 、神を里へ迎え入れるため山に登りました。 この鳥居は,赤城山に登る東南麓の参道として建てられました。それは、天明2年(1782)のことで、 新里・粕川・宮城・赤堀のおよそ5千人もの人々の願いにより実現したのです。 鳥居の島木 には,1.3mの百足が陽刻されています。そして、この周辺の人々は神の使いである百足を殺すこ とはなかった、と伝えられています。 百足鳥居は、高さ4.4m,笠木の長さは6.25mあります。 安山岩製で稲荷鳥居という形式で 造られています。 |
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-龍真寺の鶏亀地蔵- 安山岩製の坐像で、像の高さは66cmあり、基壇と基礎を含めると2.48mあります。顔は丸く, 眉は三日月形に陰刻で現し、目は閉じています。左手に宝珠をもち、右手には錫杖を携えています。 地獄界に落ちた最大の苦難を受ける人々を救ってくれるのが,この持ち物を持っている地蔵なのです。 |
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-鏑木の大日如来- 木造の坐像で,高さは42cm,頭光には輪光を備えています。目は切れ長で半眼,鼻筋が通り端 麗で品位あふれる面相です。肩幅は広く,安定感のある体躯で,肩から膝にかかる衣紋は流麗で, 左手に日輪,右手には宝剣を持っています。普通大日如来は印を結んでいる像が多く、全体に金泥 が塗られており、宝冠と瓔珞は金銅製です。台座は、盤石座・敷茄子・蓮弁であるが、普通、如来や 菩薩は盤石座に乗る例は余りありません。造られた年代は定かではないが,安定感のある端 正な造形から江戸時代のものと推定されます。鏑木家の墓地のお堂の中に安置されています。 |
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-野の六地蔵幢- 現世から三途の川を渡った時に,全ての人は現世の行いによって閻魔大王に裁かれるといいます。 そして,その行く先は、六つの世界に振り分けられるのです。つまり六つの世界(地獄・餓鬼・畜生 ・修羅・人道・天道)で、よい行いをした人だけが彼岸(河の向こう岸で悟りの境地が得られる世界) に行くことができるといいます。 |
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